2006-09-05 [長年日記]
空城の計
三国志演義で孔明が用いた計略に「空城の計」というものがあって、ようは実際には何もないのに「何かあるんじゃないか」とおもわせる作戦である。この計略は「人は合理的に行動する」という前提に基づいたゲーム理論を逆手に取っているのだけれど、この計略の弱点は合理的に行動しない、つまり本当のバカには通用しないということだ。というのは今回の話とはあまり関係ない。
「人は合理的に行動する」というのがそもそもどの程度確からしいかというと、ちょっと疑問符がつくのだけど、それにしたって「合理的行動」という前提に当て嵌めて考えることができないことを目の当たりにすると、僕はちょっと戸惑う。
さっき書いた空城の計にしろ、司馬懿は「諸葛亮が伏兵を潜ませている」という(結果的に間違っていたにせよ)合理的な行動をしていることを前提に、兵を退くという合理的判断を下したわけで、諸葛亮が琴を弾くかわりに裸踊りをしていたら、「乱心セシ」ということで攻め込んでいたんじゃないだろうかと思う。
相対する人の作戦というか心持ちがまったくもってわからないというのも、まあ面白い体験ではあるものの、戦略としては間違っているんじゃないかなぁといらぬ気遣いをしてしまう。思うに、計略というものは相手を悟らせたつもりにさせてその裏をかくというのが一番効果的なんじゃないだろうか。
あともう一つ重要なことがあって、パワーゲームで勝てる相手にはパワーゲームを仕掛けるのが一番簡単かつ、効果的な作戦であるということも付記しておこう。下手の考え休むに似たりともいうしね。
韜晦って言葉の意味を知っている人は,絶対に「究極超人あ〜る」を読んでいるというのは,私的偏見。
絶対に読んでいるかはともかく、あ〜るでこの言葉を知ったという人は結構いるだろうな。