2003-06-09 [長年日記]

先週本社の方で引越しの手伝いをした。荷物運びはいくらでもやるけど、ネットワークの線を自分で張らないといけないのは如何なものか。うちの会社の場合15cmぐらい上げ底してあって、床をはがして線を張らないといけないのだが、これのせいで一日だけ筋肉痛。つか、大本のハブの位置ぐらい教えろよな。

最近何だか仕切りたがりになってしまったような気がする。数人で何かやる時によってたかってうだうだとやっていると、もう苛ついてしようがない。別にしきりたいわけではないけど、そういう状況が嫌なのだな。多分。常に斜に構えて生きていくのが私の理想だというのに。

久しぶりにムーを買ってみたり。あいも変わらずで面白かったけど、昔ほどの勢いはないような気がする。広告の内容も変わってきているようで、宝くじがあたるなどといったプラス思考な商品が増えているような。昔のような、相手を呪うだとかそういったマイナス思考な商品は皆無だった。そうそう、ブラックホールは存在しないらしいぞ。

色々あって現在の職場は六月末までなのだけど、ふとそこでつくってもらった名刺の数を数えてみたら丁度百枚あった。確か、去年の八月に百枚作ってもらったはずで、つまりは一枚も使っていないことになる。確かに今の場所で外の人に会うことはまずないので当たり前と言えば当たり前の話なのだけど、何だかもったいないような気はする。一度くらいは「こういうものです」ってやってみたいじゃないか。

先週末に新人歓迎の飲み会があって、同じグループの女の子が「やぎの目」のファンだというのがばれぎみ。うはは。そのこと自体は全然構わないのだけど、隠したほうがいいと思う。あと、お湯割りは本人の希望した濃度にしてくれ。まじで。

「東京魔人学園外法帖」をプレイ中。現在二周目で総プレイ時間が六十時間。既に購入価格二千円の元は取りました。PS2のゲームじゃないのと高速読み込みをONにするとハングすることがあるので、ローディングがちょっと遅いけど、キニシナイ。三部作の二つ目らしいので、今度はPS2でDVD-ROMにしておくれ。このゲームには式神システムがあって、式神の元となる式神羅写にアイテムを合成して色々と有名な神様、妖怪、人物を使役することができる。で、さらにできた式神に更にアイテムを合成していってどんどん強化していくのだけど、その中に前作のセーブデータがないとつくることのできないのがいるのだ。例えば、安部晴明(式神の名前は晴明)がそれにあたる。もし前作のセーブデータがクリアデータでないのなら、買ってきてとりあえずセーブだけするのだけど、どうなんだろう。

丸二日携帯電話の電池が切れていても何も困らない生活、そんなのも悪くない。かなぁ。

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2003-06-10 [長年日記]

孔子曰く、「五十にして天命を知る」だそうだ。でも、これは一般的な話ではなくて自分のことらしい。「わかっちゃったんだよね、俺」みたいな。ということは志学もそうで、孔子が学問を志したのが十五歳だったというだけの話である。人にはそれぞれの、志学なり而立のときがあるのかもしれない。

そしてそんなこととは関係無しに僕は今日、二十五才を迎えた。もちろん天命を知ることもないし、不惑という心境でもない。もう迷ってばっかりだ。

そういえば、某高専の寮は「志学寮」だった。だけど、各棟の名前にもそれをつける、例えば「第一志学寮」というのはやりすぎだと思う。それに略称が数字+「志」というのも変な話だ。

二十五年という年月を言い換えるとこうなる。四半世紀。二十五というとそうでもないが、世紀という言葉が入ると何だか感慨深いものがある。ただし、もう一つ上のランクである半世紀になるには、もう四半世紀過ごさなければならない。

昔英語の先生が、「何月と表現する時に、日本語では一月二月という味気ない序数だが、英語はそうではない。」といっていた。確かにMay,Juneあたりはそうかもしれないが、最後あたりは序数になっちゃってるじゃないか。しかも二つずれてるし。それに日本語には、睦月、如月という素晴らしい表現がある。まあ日常的に使うかというと微妙だけど。

七月のJulyがジュリアス・シーザーの名前からきているというのは有名だけど、元が何だったかというと「五の月」という意味の言葉だったらしい。やっぱり中途半端だ。つまりヨーロッパの昔の人は一月から四月の四つは考えたけど、もうそれで飽きてしまって残りは序数にしてしまったわけだ。

昔の人の言動は有名人に収斂されるというのは誰の言葉だったか忘れたけれど、確かにそうだと思う。シーザーサラダはさっきのジュリアス・シーザーとは何の関係もない。

大槻ケンヂ「オーケンの散歩マン旅マン」、高村薫「マークスの山」上下巻読了。

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2003-06-14 [長年日記]

カラスの死骸はなぜ見あたらないのか

「カラスの死骸はなぜ見あたらないのか」というのはかの有名な矢追純一氏の著作である。僕が本を探す時は、だいたいここで検索するのだが、著者名に彼の名前を入れて検索すると、それっぽい題名の本がずらずらと出てくる。「人は死ぬ時なぜ体重が減るのか」、「宇宙人は本当に実在する」、もう題名だけで嬉しくなってしまう。

人は死ぬ時体重が減るらしい。これは、一部では有名な「魂の重さを量る実験」の関連ではないかと思う。死んだ直後に7g軽くなったという話だ(この7gという数字を覚えているのは自分でもどうかと思うが)。しかし、50kg程もある体重に対して数グラムオーダーの計測ができた頃の話なのだろうか。

本当にカラスの死骸が(死んだ瞬間に一瞬にして)消えてなくなるかというと、そんなことはありえない。まあたまにはあるかもしれないが、全てのカラスがそうだというのはいいすぎである。そもそも何故このような話が出てきたかというと、カラスの死骸は見当たらないというのが根本にあると思われる。確かに、普段カラスの死骸を見ることはあまりない。しかし、それは鳩にしたってそうだし、見ないというのはただ単に注意力不足だからだ。

しかしなぜ、カラスなのだろうか。いや件の本によると鳩も消えているらしいのだけど、鳩のことを気にする人は少ない。それはやはりカラスが神代からの生き物だからだろう。古事記には三本足のカラスである八咫烏が描かれているし、世界的にみてもカラスを神の使いとする伝承は多い。

超能力を白いカラスに喩えることがある。簡単な存在証明のレトリックなのだが、「白いカラスがいないとはいえないように、超能力もないとはいえない」というやつである。だからこそ、存在証明は存在すると主張する側が証明しなければならないし、否定する側はそれに対して反論するだけでいい。

ちなみに白いカラスは存在する。

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