2003-06-10 [長年日記]

孔子曰く、「五十にして天命を知る」だそうだ。でも、これは一般的な話ではなくて自分のことらしい。「わかっちゃったんだよね、俺」みたいな。ということは志学もそうで、孔子が学問を志したのが十五歳だったというだけの話である。人にはそれぞれの、志学なり而立のときがあるのかもしれない。

そしてそんなこととは関係無しに僕は今日、二十五才を迎えた。もちろん天命を知ることもないし、不惑という心境でもない。もう迷ってばっかりだ。

そういえば、某高専の寮は「志学寮」だった。だけど、各棟の名前にもそれをつける、例えば「第一志学寮」というのはやりすぎだと思う。それに略称が数字+「志」というのも変な話だ。

二十五年という年月を言い換えるとこうなる。四半世紀。二十五というとそうでもないが、世紀という言葉が入ると何だか感慨深いものがある。ただし、もう一つ上のランクである半世紀になるには、もう四半世紀過ごさなければならない。

昔英語の先生が、「何月と表現する時に、日本語では一月二月という味気ない序数だが、英語はそうではない。」といっていた。確かにMay,Juneあたりはそうかもしれないが、最後あたりは序数になっちゃってるじゃないか。しかも二つずれてるし。それに日本語には、睦月、如月という素晴らしい表現がある。まあ日常的に使うかというと微妙だけど。

七月のJulyがジュリアス・シーザーの名前からきているというのは有名だけど、元が何だったかというと「五の月」という意味の言葉だったらしい。やっぱり中途半端だ。つまりヨーロッパの昔の人は一月から四月の四つは考えたけど、もうそれで飽きてしまって残りは序数にしてしまったわけだ。

昔の人の言動は有名人に収斂されるというのは誰の言葉だったか忘れたけれど、確かにそうだと思う。シーザーサラダはさっきのジュリアス・シーザーとは何の関係もない。

大槻ケンヂ「オーケンの散歩マン旅マン」、高村薫「マークスの山」上下巻読了。