2001-06-27 [長年日記]
アンドロメディア
粗筋を簡単に説明すると、ヒロインである舞が交通事故で死んじゃってAIである「アイ」として復元されて、というよくある話である。
このような話を作るには関係と手段を定義すれば良い。ここでいう関係とは、
- 娘(息子)
- 片思いの相手
- 理想の異性
- ロボット(アンドロイド)として
- AI(というと語弊があるかも。物理的に存在しない形で)として
といったやつだ。ここで、死んだ息子の代わりにロボットを、とすると天馬博士になるし、息子が死んでなけりゃ成原博士になるわけだ。「僕はロボットではありません。アンドロイドなのです。」と言われそうだが。ここで重要なのは、復元あるいは複製された存在は元の存在とは異なるものであり、独自の意思を持っていることである。そして彼(彼女)らは自分の存在意義を疑い、思い悩むのである(R君も悩んでいたのだ。多分)。
で、この映画ではというとそこの描画が浅いように感じる。もちろんそれを話に盛り込む義務はないが、少しでもそれをちらつかせている以上、もう少し突っ込んでやればまた別の方向性が見えたのではないかと思う。
あと、コンピュータ関連での演出はかなりアレな物が多かった。友人曰く、「少し前の日本では、SFのscienceを正確に描画することがもてはやされる風潮があった。それに対するアンチテーゼなのだ。」とのたまっていた(アンチテーゼという言葉は私が引き出したので、ちょっと意味が変わっているかもしれないが)。がしかし、やはり物事には限度があって、あまりにも杜撰な表現だととたんに「萎えて」しまってストーリーを追う元気もなくなりあら捜しをしてしまうのである。
まぁディスプレイ上のアイが、話す相手の方を向くのは演出としてしょうがないにしても(それ以前に視覚聴覚の入力はどうしてるんだろうとかあるけど)、ネットワーク上のパソコンに侵入するのに間取り図はいらんだろうとか、ホースみたいなのがうにょうにょ動くだとか、車のラジオのアンテナからブレーキの制御をするとか。
大目に見てこれらを許すにしても、アイの視点からの画(窓を通して外界が見えている)は絶対にだしてはいけないものだと思う。