2000-11-16

かさ

かさを貸したのは俺がやさしいからじゃない。君が誰かのかさにはいって歩くのがいやだっただけだ。

…なんてね。ははっ。


2002-11-16

「読むことを前提とせずに書かれる文章などはこの世にあり得ないのだ」というのは京極堂の言であるが、読者として想定していない人というのがあるもの確かで、まあ有体にいえば読んで欲しくない人、というかサイトの存在を知られたくない相手もいるということである。もちろんこういう公の場に晒している以上誰にでも読む権利はあるのであって、それに難癖をつけても仕様の無い事である。仕様の無い事ではあるが、それでは話が終ってしまうので敢えてここで書いておこうとそういう次第である。

対人関係の一番大きな区切りは、知人であるか否かであるが、この区切りでサイトを教えるかどうかを決めている人も多い。つまり知人に対しては一切教えないタイプである。それでは誰に教えるかというと、他人しかいないわけであるが登録制の検索サイトに登録するなどというのがまあ他人に教えることになるだろう。私の場合はそうではなく、知人の中でも友達と思われる人には教えていて、訪問者のほとんどがそういう人であろうと考えている。

では誰に教えないか、若しくは教えたくはないかというと筆頭はやはり親兄弟である。もうこれは内容に関らず、絶対に見せたくはない。理由はない。次はやはり会社の人である。ほんの少しではあるが会社のことも書いているし、やっぱりそうだったのかと思われるか、見る目が変わるのかどうか分からないが、積極的に晒そうとは思わない。

結局のところ何が言いたいかというと、休みの連絡をするのにメールを送ったのだが、迂闊にもシグネチャにここのアドレスを書いたままだったのだ。あー、どうしよう。「一昨日のメールを即刻削除せよ」というのも変だし、このためだけに移転する気力もないし。ということで、○○さんみてますかー?会社の他の人には晒さないでねー。まじでお願いします。風邪はまだ治りません。看病してください(笑)。

そういえば一つ忘れていた。恋愛感情を持っている相手にも知られたくない。なんとなく。ということで二重の意味で失敗しなたような気がする。そして、もちろんこの文章も読まれることを前提として書かれている。

(笑)は便利である。ということを実感する今日この頃。


2004-11-16

うへ

サーバマシンが調子悪いぜ。おかげで夜更かししてしまった。

読書記録

冒頭の書き出しが有名な小説といえば、夏目漱石の「吾輩は猫である」や、川端康成の「雪国」だと思うのだけど、外国文学で一番有名なのは、カフカの「変身」だろう。そう、グレゴール・ザムザは朝なにか悪い夢から覚めると、自分が大きな一匹の虫になっているのに気づいたのだ(うろ覚え)。

世間一般的には、不条理に対する人間心理ということで哲学するむきもあるのだろうけど、ザムザ君のドアを開ける際の細かい描写や、妹とのコミュニケーションのとり方など、哲学抜きに充分に「読ませる」内容になっている。

とここまでが普通の感想なのだけど、ムー的に読み解くならば、ザムザ君は明らかに変化(へんげ)の先祖がえりである。世界各地での伝承伝説において、怪異と人間との間で子を成すことはままあることである。また、数世代をおいてその特性が発現することもあり、これを先祖がえりという。解説に従うならば、ザムザ君はムカデの変化である。これは、食欲のなさ(怪異は人間とは違う体系の中で生きているのだ)、傷ついた体の快復の具合をみても間違いない。となれば、死因は背中に突き刺さったリンゴの芯ではない。ムカデの変化の弱点は、左目と人間の唾である。

ここまでくれば、犯人はあきらかだ(犯人?)。事件の関係者をもう一度整理しよう。まずザムザ君の身内は、父と母、そして妹の三人である。身内以外の関係者は骨太の女中と、ザムザ家に下宿している紳士の三人である。このうち、一番怪しいのは直接世話をしていた妹である。彼女はザムザ君を兄として慕って、ムカデになってからの世話も"狂熱心をもって"していたが、最後の方になると疲れを見せ、ムカデと兄を分けて考える旨の発言もしている。つまりこれは、ムカデを邪魔者として排除しようという提案であり、動機としては充分すぎる。しかし、彼女のアリバイは完璧である。ザムザ君が天に召されたその夜、彼女は家族とともに過ごしているのだ。このことから、父と母も同様に嫌疑の枠の外にいることになる。次に下宿していた三人の紳士であるが、彼らは潔癖症で、物置にされてしまった部屋で埃まみれになったザムザ君を見て、明らかな嫌悪感を示している。しかし、裁判所に訴えてでるかもしれないという発言をしていることからも、比較的冷静であることがみてとれるし、なにより彼らは事件の直前に下宿を追い出されているため、犯行に及ぶことはできなかったのだ。

このことから、犯人は骨太の女中であることは間違いない。彼女はザムザ君を見ても恐がらず、話しかけさえしていたが、その実、近づいてきたときに椅子で打ち据えようとしたりしていた。また彼女は、事件の第一発見者でもある。そのころザムザ君の世話を一手に引き受けていた女中は、朝犯行に及び(縫い針に自分の唾をつけ左目に刺すだけで充分だっただろう)、そのあとに素知らぬ顔で家族を呼び、家族が解放感と脱力感に浸っている間に遺体を処理することで、証拠隠滅を図っている。

では彼女が犯行に至った動機は何だったのだろうか。私は、彼女の理解不足にあったのではないだろうかと考える。ザムザ君は家族にとって未だ家族であり、それ故に苦悩の種となっていたわけだが、女中にはムカデが家族であるということが伝わっていなかったのではないだろうか。となると、ムカデは家族にとってただの邪魔な存在であると定義していたのだろう。そして、家族は害をなしてムカデの変化の怒りをかうことを畏れ、部屋をあてがっていると認識した。しかし自分はムカデの弱点を知っている。そしてムカデを"処分"すれば、それなりの報酬を得られると判断したに違いない。

しかし、彼女が報酬を得ることはなく、家族は解放された。そして真相は永遠に闇に葬り去られることになったのだ。

なんつーか、ごめんなさい。

正面の隣=二個隣

ミヒャエル・エンデは著書「モモ」のなかでこう書いている。「人から相談を受けるときは、斜め横に座るのがよい。」確かに、隣に座ると相談する雰囲気ではないし、真正面だと「向き合いすぎている」というのもわかる。

さて、あなたはこういうときどうするだろうか。会社や学校などの食堂でおぼんを持ちながら席を探していると、ちょうど知り合いをみつけた。まわりは空いている。

  • まったく別の席に座る。
  • 正面から一個ずらして座る。
  • 真正面に座る。
  • 隣に座る。

上から順番に物理的距離は縮まってゆく。つまり親しさの度合いといってもいいだろう。人にはそれぞれ、パーソナルスペースの広さに違いがあるので、どの段階がどの程度の親しさかはわからないけども、広い机に二人っきり(なんてことはまずないけど)なのに隣に座るのを想像してほしい。隣は、ちょっと無理だ。

隣と真正面、正面の隣はどれくらいの距離感なのだろう。例えば、隣に座るのと正面の隣に座るのは精神的な距離感として倍半分ぐらい違うのではないだろうか。正面の隣というポジションは、気楽で良いけども、人によっては距離を置かれていると感じるかもしれない。それが隣の倍半分である。そうすると、隣と真正面の差は三平方の定理からすぐに求めることができる。√(2^2-1^2)、つまりは人並みに驕れるぐらいということになる。つまり4から順に、1:1.732:2の距離があるということだ。おっ、それっぽい数字が出てきた。

そして、私にとっては正面の隣から真正面は越えがたき壁である。えー、要するに何が言いたいかというと、気恥ずかしいのでできれば真正面は避けていただけないでしょうかってことだ。<考えすぎだ。

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

Before...

kp [それは俺が書いたじゃないか。ってごめん、消したところだった。左ってか、相手の利き手側だな。多分。]

しゅう [利き手じゃなくて心臓と聞いたことがあります。]

kp [弱点を晒して信用を得るとは、昔の武士かと俺は言いたい。]


2007-11-16

カルカソンヌ

XboxLive5周年記念ということで、カルカソンヌ完全版を無料でダウンロード。点数計算が自動なので楽でよい。